気まぐれ日記 2011年12月

2011年11月はここ

12月1日(木)「母の妄想にがく然とする風さんの巻」
 午前6時前に新宿駅西口バスターミナルに着いた。
 雨が降っている! さすが東京雨男(笑)。
 首に巻いた枕の威力はすごかった。痛くないのだ。
 洗面のためにいつも行く公衆トイレに入ったら、先客の荷物を倒してしまった。
「バカ野郎。どこに目をつけてやがるんだ!」
 と怒鳴られたので、
「すみません!」
 と怒鳴り返してやった。
 首が痛くならなかった私は、朝から強気だった。
 もし相手がつかみかかってきたら、突き飛ばしてやっただろう。高齢になると命が惜しくなくなるようだ(笑)。
 今回は大宮まで在来線で行って、そこから東北新幹線に乗った。もっと先まで行ってもよかったな。
 郡山駅でレンタカーを借りて、いつものように現地での介護スケジュールが始まった。
 兄の家に寄ってから実家へ行くと、母の様子がおかしかった。
「あれ? お前、東京にいるんじゃなかったの?」
 幻聴のためにおかしな行動をするようになった母だが、その症状が進行していて、今回は、私の滞在中ずっと休むことなくおかしな行動が続いた。
 母は連れず、私ひとりで認知症のかかりつけの病院へ行き、主治医に母の今後について相談した。
 先週、兄も来て相談していたので、私は今朝の状況も加えて考えていることを述べた。入院である。
 主治医もその方がいい、と言ってくれた。
 問題は、病気ではないと主張している母を、どのようにして病院へ連れてくるかだ。
 その辺は看護師から聞くことになり、親身になって相談にものってくれた。
 終わってから兄に電話して、兄の同意もとりつけた。
 帰宅して、12時から母の妄想話を黙って聴くことにした。
 決して腹を立てず、気が遠くなりそうでも我慢して聴いた。
 そのまま午後2時になった(私は2時間耐えたのだ)。昼食を食べていない私に母が気付いてくれたお陰で、母のたわ言は一時中断したので、ランチを食べに出かけることになった。
 しかし、準備をしている間も、レンタカーでの移動中も、レストランでの食事中も、母の妄想話は続いた。
 冷蔵庫の中には賞味期限切れの品物がたくさんあったが、火を通せば大丈夫だろう、と乱暴に考え、夕食はIH調理器を駆使して楽しく食べた。
 明後日、日大工学部(郡山市内にある)で講演をするので、その準備に手をつけた(やっと、である)。
 今年初めて実家の湯船にお湯を張って入浴し、早めに就寝した。さすがに冬だ。夜は寒い。

12月2日(金)「講演前夜・・・の風さん」
 母が起きる前から行動開始。
 実家にあるゴミをすべてまとめて、ゴミの集積場に置いてきた。
 郡山市にある日大工学部に9時半ころ着いた。
 そこからワイフに電話して、昨日の母の様子と、病院での相談結果などについて報告した。ワイフも私の考えに賛成してくれた。
 サステナブル研で、明日の相談をし、実家でスライドの作成をやりやすくするためにディスプレイを借りた。
 母のところへ毎日来てもらっているケアセンターのオフィスへ行き、昨日の判断結果について話してアドバイスを聞いた。さすがプロだけあって、有益な情報が多々あった。
 今日の母も昨日と変わりなく、延々と妄想にとらわれている。
 IH調理器を使って夕食の準備をしたのは、昨日と同じ。
 講演スライドの準備に手間取って就寝が遅くなった。
 それでも、今夜も湯船につかって体を温めてから寝た。

12月3日(土)「VIPのトイレ掃除・・・の風さん」
 朝から冷たい雨が降っていた。
 講演に出かけなければならない忙しい時間帯に、さっそく事件が起きた。
 トイレの排水が不調なのである。
 何かが詰まっているらしい。
 実家のトイレはオートマチックなので、私がトイレの周辺で動いていたら、自動で水が流れた。
 便器から水が激しくあふれ、床が洪水になってしまった。
 急いで電源を切ってこれ以上動作しないようにしてから、雑巾とバケツを持ってきた。
 トイレマットを外してしぼると、バケツに水が急速にたまった。トイレマットは洗濯機へ放り込んだ。
 雑巾で吸い取った水で、バケツは一杯になった。
 すべて終わったころ母が起きてきたので、いちおう説明したが、母はニコニコ笑って平気を装っている。きっと前にもあったのだ。
 いくつか注意して、とにかく時間がないので、私は出発した。あとは、帰ってきてからやろう。
 学部長に挨拶し、昼食会に出席し、いよいよ講演の時刻となった。
 今回は日大学内の研究発表会の記念講演のような位置付けだったので、私のような者でもVIP待遇で、もったいないほどの歓迎を受けた。
 時計技術の進化を中心に、江戸時代の天文暦学について解説した。私にしては短い講演時間だったが、何とか手際よくまとめることができた(と思う)。
 講演後は、サステナブル研で先生と歓談した。
 ヘルパーさんが来る時刻が迫ってきたので、急いで帰宅した。
 母の様子は相変わらずで、トイレの状況も好転していなかった。
 タンクが空になりそうだったので、灯油の配達を電話で依頼し、その後、ホームセンターへ行き、排水口の詰まり対策グッズ(柄の先に吸盤がついているもの)を買ってきた。後悔しないように、一番高価な品物を購入した。
 帰宅してそれを使ったら、見事に流れるようになった! それにしても、VIP待遇の講演をした人間が、その前後に、便器からあふれた水を拭き取ったり、排水口の詰まり対策でバタバタしていたとは誰が想像できようか!?
 今夜もIH調理器で夕食を楽しく食べた。牛肉のカルビも焼いて、由緒ある塩をふって食べたら、ステーキとそっくりな味がして感動した。
 さあ今夜は、S社向けの原稿を徹夜で仕上げようと、先に入浴しておいて、ガッツポーズで取り掛かったが、未明に疲労でダウンした。

12月4日(日)「介護から執筆モードへ・・・の風さん」
 昨日の雨は上がったが、強風が残った。
 今朝もトイレの排水がやや悪い。吸盤付の道具を使って改善し、その道具をトイレの入口付近にバケツに入れて置いた。母に念押ししたのは、ウッカリすると、自分が買ってきたものでないので、捨てられてしまう。
 母には内緒で兄貴の家に寄って、レンタカーを返却し、駅でお土産も買って家路についた。
 原稿の執筆がはかどっていないので、東北新幹線でも東海道新幹線でも車中でモバイルPCのアプリルに向かう。必死だったのは、確かに原稿が遅れているせいもあったが、いよいよ母を入院させると決意していて、気が重かったからだ。やはり母には1日でも長く、わがままで贅沢な一人暮らしをさせてあげたい。
 再び福島へ行くことを含めて、短期計画を考えてみると、例によって過密スケジュールである。
 名古屋からJRに乗り換えて、行きつけの床屋へ行くことにした。今日でも、当初予定から2週間遅れである。
 床屋でも居眠りせずに読書していたから、やはりピンチで必死だったのだ。
 今日の4時から、母の精神安定剤は1錠から2錠になる。あまり期待はしていないが、母の入院を決行する最後の判断材料の一つになるだろう。
 
12月5日(月)「死ぬ前にやらねばならないことがある・・・の風さん」
 昨夜(今朝か)、原稿は最後まで到達しなかったが、心配している編集者をさらに不安に陥れてはいけないので、できているところまで送付した。
 午前3時半に就寝(仮寝)して、6時に起きた。
 T製作所へ出張し、本社に寄って、途中でミッシェルの修理を依頼してから、久々に研修所に出社した。
 たまっている仕事を黙々とこなし、普通に退社した。
 修理の終わったミッシェルを受け取り、途中で給油もして帰宅した。
 今夜も執筆の続きを休み休みやったが、書斎がやけに冷え込んできて、寝転がっているときに、全身が震え出した。冬期の明け方に、たまにある症状だが、この延長線上に心臓麻痺があるような気がする。
 根性を出して階下へ降りて、熱い湯船に浸かった。
 まだまだ死ぬわけにはいかないし、やりかけの仕事も完遂させねばならない。
 今夜も途中までの原稿を編集者へ送った。

12月6日(火)「やっと原稿ができた・・・の風さん」
 研修所へ出社し、午前中は会議。
 昼休みに研修所を抜け出して、近くの図書館へ借りている本の継続処理に行ってきた。
 午後も会議があった。その後、自分の主催する会議をやろうとしたが、前の会議が延びてしまったので、私の会議は来週へ延期することにした。
 社内の情報システムを使って「コンプライアンス・テスト」というのをやった。いい加減に回答していたら、見事に不合格となった。 
 それで、やり直し。これは何とかうまく行った。
 当初予定していたトレーニングも中止して、今夜も執筆に専念。
 午前4時にやっと最後までたどり着いた。
 なんでこんなんに時間がかかるのだろう、と毎回思うが、効果的な解決策は見つからない。
 午前4時半に就寝した。

12月7日(水)「楽しさと侘しさ・・・の風さん」
 午前6時に起床した。
 最寄の駅を7時31分に出る電車で出発した。今日は東京出張である。以前よく行っていたセミコン(半導体関連の展示会)見学で、場所は幕張メッセである。
 場所が遠いので、夜行バスで行ったこともある。
 海浜幕張駅に着いた。すごい数の乗客が降りた。
 今日はくだけた服装でやってきた。荷物も少ない。
 幕張メッセはかつて東京モーターショーの会場でもあった。ほとんどプライベートで行った楽しいイベントである。冷たい風が吹いていて、人生の終盤にさしかかっている侘しさを感じる。次にここへやってくる日があるのかないのかまるで自信がないからだ。
 楽しく見学して回れるのは、それなりに経験を積んでいるからだろう。
 やはり大震災のあった年のイベントだけあって、BCP(Business Continuity Plan)関連の設備展示などが目立った。
 帰りに東京駅で下車し、出版社と少し打ち合わせてから新幹線に飛び乗った。
 出版社から長谷川伸先生に関係した本(トップページにも掲載中)を頂戴した。ありがたかった。これは早速五大路子さんへ教えなければ。
 帰宅したら、東京農工大の涌井伸二先生の本が届いていた。『これなら書ける! 特許出願のポイント』(コロナ社)である。読みやすそうなコンパクトな本である。

12月8日(木)「麻薬的必死の努力・・・の風さん」
 4日から母へ投与している精神安定剤を1錠から2錠に増やした。うれしいことにその効果があったようで、ヘルパーさん情報によると、昨日までの3日間、母の様子はビックリするくらい穏やかだったという。
 先週までの予定では、今日、病院へ電話して主治医に入院の意志と予定を伝えるはずだったが、もうしばらく様子を見るために延期することにした。
 実際、母を入院させるとしても、本人の同意を得ることは困難で、計略を用いるしかなかったので、私の胸の奥には形容しがたい重たいものがわだかまっていたのである。
 慌しい1日が終わりに近付いたが、今日は研修所の戸締り当番である。
 定時後、そろそろ気になってきた週末のビジネススクールの、事前レポートを確認することにした。大学院のWebsite上でも見ることができるのだ。
 以前から次の講義というか科目は、事前レポートが大変だという噂が出ていたのは知っていたが、私の多忙と無知(Websiteの利用方法について)のため、今日までしっかり確認することがなかった。
 それを見て、ぶったまげた。
 確かに、とんでもない分量である。ここまで指定教科書を読んだりしていたが、そんなことでは全く対応できない。別の事前勉強が必要なのだ。
 近くの同僚に愚痴を垂れていたら「これで明日の有休は決まりですね」と言われ、0.1秒で納得した。
 即、社内システムを使って、有休申請をした。
 午後8時ころになって、本社の元部下からうれしいメールが届いた。私の論文が論文賞に内定したのだという。来年の3月が受賞式とのことだが、全力で取り組んでいれば、こういった幸運がやってくるので、何度死にそうになろうとも、必死の努力はやめられない。
 事前レポートも頑張ろうと思った。

12月9日(金)「有休をとった甲斐はあった・・・の風さん」
 突発有休にしたが、普通の時刻に起床した。時間は貴重である。1分もムダにできない。
 事前レポートのために取得した休みだが、雑多なこともたくさんたまっていた。午前中、それらを一つずつ片付けて、勉強に注力するために環境を整えていった。
 一つ残念なことがあった。昨日の母の様子は、また先週とよく似た感じだったという。それでも、3日間は落ち着いていたのだという事実を自分に言い聞かせ、焦らず今後の様子を見守っていこうと思った。
 昼になった。私が家にいるときに限ってワイフは留守だ。もうジンクスみたいになっている。今日は、ワイフは友達と宝塚までタカラヅカを観に行った。だから、食事はすべて自前。朝食はいつも通りのトーストで、昼食は、インスタントラーメンと冷蔵庫の中の余り物で間に合わせた。
 午後から、問題の事前レポートに着手した。
 基礎的なことを勉強しないと書けない課題なので、それから開始するわけだが、全部をきちんとやっていたら、来年になってしまう。レポートにするために必要な最小限の勉強にするため、先ず、戦略を練った。
 今夜は、研修所の設立10周年記念パーティが予定されていた。当然出席予定にしていたが、昨夜、大学院のWebsiteを見た時点で、出席の可能性はほとんど「0」になっていた。
 夕方近くなって、レポートを放り出してでも駆けつける気持ちは全く生じなかった。
 夕食の時間になった。次女は帰りが遅くなるとメールしてきたので、私一人だ。ご飯は炊けている。
 冷蔵庫の中を再チェックすると、卵と納豆があった。
 それで、決まり。
 夜遅くなって、ワイフ続けて次女が帰ってきたので、駅まで迎えに行った。それ以外は、ひたすら事前レポートに専念していた。
 できた! 信じられないことに、午前零時前に、明日の分のレポートができた。

12月10日(土)「皆既月食・・・の風さん」
 1ヶ月ぶりのビジネススクールである。意図的にペースを落としたので、気分的にはゆとりがある。でも、私の能力をはるかに上回っているチャレンジなので、油断はできない。
 今回も私の知らない世界の勉強なので、非常に楽しみである。
 前回はグループディスカッションの時間が長くて、昼食はすべてコンビニで買ったものを学内で食べながらディスカッションしたという状況だった。しかし、今回は、ちゃんと休憩時間が確保されたので、近所で牛丼を食べた。費用的にはどちらでも同じく安い。
 今夜は、ワイフは通夜に参列するので、早く帰ってもすぐ晩御飯にはならないことが分かっていた。
 それで、名駅近くのドトールでコーヒーを飲みながら、明日の講義の事前レポートの準備をすることにした。
 帰りの電車を遅らせたが、駅から自宅まで夜道を歩いた。寒くはない。空には満月が・・・・・・、おっと、そうだ、今夜は皆既月食が見られるのだ。
 自宅に着く寸前で、通夜から帰ってきたワイフの車と合流した(笑)。
 9時45分ごろから始まった月食は、最初は突然出てきた雲に隠れて見えなかったが、11時ころには赤黒い特徴的な月になって中天を鈍く焦がしていた。
 明日の事前レポートは、容易に終わりそうもなかった。

12月11日(日)「ビジネススクール2日目・・・の風さん」
 結局、就寝時刻は午前4時40分になってしまった。
 事前レポートを書き上げるのに、どうしてこんなに時間がかかるのだろう? 決して完璧主義になっているわけではない。もちろん文章を書くことに、微塵のストレスも感じていない。それでも、こんな状態である。
 今回のビジネス・スクール体験での、一つのチャレンジは、スピードである。期限や締め切りをしっかり守ることと、そこまでいかに短時間で到達するかという能力をつけることだ。これは、特に、今後の作家としての仕事に生きるに違いない。
 いつもの電車に乗ろうとしたら、駅のホームで知人に会った。文章サークルの生徒の一人である。
 自分一人、めちゃくちゃの高速度で走っているので、こういった人との出会いや交流の機会をどれだけ失っているか分からない。
 そういう意味で、今日は朝からハッピーだった(睡眠不足を電車の中で補うことができなかったが)。
 今日も、講義時間がしっかり管理されたので、昼食は近所で牛丼を食べたし(またか)、帰りは名古屋駅まで歩いた(地下鉄代200円の節約)。
 五大路子さんからまたお酒が送られてきたので、ファンクラブの知り合いを通じて、新潮選書『義理と人情 長谷川伸と日本人の心』2冊を送る手配をした。五大さんのお陰で、ファンクラブの中に長谷川伸先生を知るようになった人がたくさんいる。これからも五大さんに長谷川伸先生を取り上げてもらいたい。

12月12日(月)「ティッシュの話なんか・・・の風さん」
 旧職場へ出社し、会議に出席。昼食後、研修所へ移動。先日の出張(日本企業の経営課題2011)報告を自職場にした。
 先週末の職場のパーティには出席できなかったが、私の分の抽選を誰かがやってくれたそうで、景品をもらった。何だろう、とワクワクしたが、もらってビックリ、ティッシュペーパーだった。ティッシュペーパーに不満はないのだが、もらったティッシュペーパーは、私の人生観に反するものだった。
 なんと1箱千円もする「羽衣」というブランドだったからだ。4枚重ねだろうがフワフワだろうが、そんなことはどうでもいい。ティッシュペーパーの使い道の中に、千円かけてもいいような使い道があるとはとても思えない。
 とにかく帰宅して話題にはしてみようと、とりあえずもらった。
 退社前に社内メールで訃報をもらった。
 『怒濤逆巻くも』や『ラランデの星』を書いているときに闘病中で、まもなく亡くなられた上司がいるが、その奥様が亡くなられたというのだ。上司が亡くなった後、新しい本ができると、霊前に供える気持ちでお送りしていた。そうすると、いつもご丁寧なお手紙を書いてくださった。その奥様ご本人が亡くなられたのだ。
 明晩の通夜に参列しようと思う。
 退社して、帰りに買い物をし、ミッシェルに給油もした。
 ワイフに「羽衣」を見せたが、それより訃報の方がはるかに重要な話題だった。

12月13日(火)「押しかけ女房・・・の風さん」
 退社して通夜に直行した。
 礼服がきつくなってしまったので、地味な服装にして喪章と黒いネクタイでそれらしくした。
 式場は、亡くなられた上司と同じだった。
 あれからまだ10年も経過していないが、逆に、もう10年近くなるのか、という驚きもある。
 奥様は上司と大学が同窓で、卒業後、横浜から愛知県まで上司に会いに来ていたそうで、極端な表現を使えば「押しかけ女房」のような感じだったらしい。
 同い年だった奥様は、59歳で、再び天国の上司へ「押しかけ女房」のように昇っていったのだ。
                 合掌

12月14日(水)「やっぱり気になる母のこと・・・の風さん」
 今年もあと半月しか残っていない。今の状況を1年前に予想していたかというと、全然である。
 全く予想していなかった展開の中でもトップが、母のことだ。2月に心筋梗塞で倒れ、絶望だと思われたのが奇跡の復活を果たし、それと同時に重い認知症の発覚である。直後に発生した東日本大震災が、事態をさらに複雑化し困難にしたが、それは今はあまり関係なくなってはいる。しかし、その間に、母の認知症はやや進行し、精神障害まで出現している。
 限界は近いが、できれば最後までわがままな暮らしをさせてあげたい。
 明日は、当初、母の入院を考えた日である。それは、今は、とりあえず保留している。
 そして、明日はまた、年金の入る日でもある。認知症でも、年金の入る日だけは執念で記憶していて、タクシーで銀行に直行していた。
 母が無事に年金を受け取れるように、遠隔操作を試みようかどうか迷っていたが、結局、やめた。
 細々したことを含めて機敏に動くためには、現地にいる必要がある。遠いところから頭で考えたことを、いくら好意とはいえ、やたらとやってはいけないのだ。
 ビジネススクールの講義と講義の中間なので、夜は作家業に専念した。

12月15日(木)「幸福な事業継承・・・の風さん」
 研修所へ出社し、その後本社へ移動して会議に出、昼食後、旧職場へ出張した。そこで、会議に出た後、午前中の会議の報告をまとめてから退社した。
 今日、母はちゃんと銀行へ行けただろうか。ふと思う。
 帰りにガソリンスタンドで灯油を購入したあと、知り合いの薬局を訪ねた。来年1月いっぱいで閉店するという知らせがきたからだ。
 少し悪い予感がしていたが、その店は閉めても、息子さん夫婦が経営する薬局が2軒引き継いでくれるそうで、要は引退、事業継承、子供の代へと移るのである。ハッピーな結果なのだ。
 せっかくなので、たくさん購入して帰宅した。

12月16日(金)「やっぱり苦しい週末・・・の風さん」
 先週は金曜日を有休にして週末のビジネススクールを乗り切った。
 同じ手は2度は使えない。それでは反省も改善もないからだ。
 しかし、苦しい状況は変わりない。
 今週は、土曜日の夜の旧職場の忘年会をキャンセルした。毎年楽しみにしている旧職場の忘年会だったが(現場の女性との絶好の機会だったので)、仕方ない。
 ビジネススクールで使う資料やテキストをまだ読了できていなかったので、今日は職場で読んだ。ビジネススクールでの知見は確実に職場へフィードバックしているので、許してもらおう。
 夕方、自分が設定した会議があったが、効率よく終えて、退社時刻に影響が出ないようにした。
 帰りにミッシェルに給油して帰宅した。
 事前レポートを午前零時までに完成させる。その想いで書斎に入ったが、前もって読んでおくべき参考文献が、実はまだ読み終えてなかった。くじけそうになる気持ちを奮い立たせながら、また突撃を繰り返している風さんである。

12月17日(土)「ビジネススクール第3日目・・・の風さん」
 別に有休を取れなかったせいではないが、ビジネススクール第3日目の事前課題レポートの作成を終了して就寝したのは今朝の2時半だった。大変だと噂される明日の分が全くできていないので、不安である。
 4時間ちょっとの睡眠で出発した。
 こんなに大変でもちっとも気が滅入らないのは、本当に自分のためになっていると思っているからで、そうでなければ、天然のノー天気(ボケ)ということだろう。
 行きの電車の中でもしっかり参考資料を読み続けた。なにしろ重いカバンを2つも持っているのだ。
 講義が始まっていきなり先生が、「昨夜の睡眠時間が4時間未満の人?」と問われて、手を上げることができなかった。データにうるさい技術屋は、数値に関しては精度の高い反応をするのだ(笑)。
 ディスカッション・グループが変更になった。しかし、何となく今回ものんきなチーム編成になった。タイムマネジメントをしっかりやる先生の下で、スケジュールが確実に進行した。
 ランチは今日も牛丼。
 今夜は旧職場の忘年会が名古屋駅近くで開催されるのだが、明日の準備のため、欠席である。
 帰りは、名古屋駅まで歩いて、地下鉄代を節約した。
 帰宅し、夕食を摂り、全速力で事前レポートに取り組んだ。
 確かに作業スピードは上がっている気がする。9月末に入学した直後とは雲泥の差だ。

12月18日(日)「調子に乗って2次会まで参加・・・の風さん」
 今朝もまた就寝時刻は午前2時半だった。なかなか難しい事前課題レポートだったが、徹夜にならなかったのは、立派だと自画自賛しておこう。わっはっは。
 しかし、睡眠時間は5時間ほど。
 今回の講義では、ときどき江戸時代や明治維新が話題になる。
 先週、先生へ自己PRを兼ねて『怒濤逆巻くも』を贈呈していたので、うれしいことに先生が拙作に言及してくれた。
「久しぶりに司馬遼太郎に会った気がした」
 これは大変なお褒めの言葉になってしまったため、受講生から拙作の内容を知りたいというコメントが出て、うろたえながら説明したが、まったく要領を得ない話になってしまった。
 今日もランチは牛丼で、ほぼ予定通りの時刻に講義が終了した。
 4日目は、恒例の打ち上げとなる。先生と一緒に向かったが、その前に、『星空に魅せられた男』を贈呈した。
 作品の後半に佐藤一斎が出てくるところを、ぜひ先生に読んでもらいたい。鳴海風という作家の存在が、しっかり先生の脳裏に焼き付けられるだろう。
 打ち上げは2次会まで参加してしまったが、非常に多くの大学院情報を得ることができた。2年間で何とか卒業したいと思っている。
 酔っ払った頭を冷やしながら、今夜も名古屋駅まで歩いた。
 帰宅したが、頭痛がする。睡眠不足と酔いのせいだ。
 それでも執念で書斎のパソコンに向かったが、頭蓋骨の中から脳みそが消失したらしい。

12月19日(月)「母の様子がだんだん心配に・・・の風さん」
 朝の冷え込みが身にしみつつある。洗面をする前に、給湯器のスイッチを入れるのが習慣になってきた。
 T製作所へ出張して、会議で少し報告した。時間として25分ももらったのに、30分もかかってしまった。
 やはり、昨夜消失した脳みそは、まだ頭蓋骨の中に復活していないようだ。
 本社に寄ってから研修所へ着いた。
 とうとう退社時刻になっても脳みそは行方不明のままだった。
 夜、書斎に福島のヘルパーさんから電話があった。
 母の様子を伝えるもので、先週年金をおろすことができなかったので、不安な様子である。私が出かけていけばもしかすると解決するかもしれないが、年末で残り日数が少なくなっていて、ピンチなのが、絶体絶命になりそうである。逆に、私自身も不安になってきた。
 それにしても、母はなぜ銀行へ行かないのだろう?
 
12月20日(火)「波乱に満ちた一日・・・の風さん」
 母が銀行へ年金をおろしに行ったが、通帳と印鑑を持って行かなかったので、待たせていたタクシーで帰らされた、という情報が伝言ゲームで、私のところまでもたらされた。
 今まで一人でできていたことができなくなった。これも認知症の進行を示す重要な事実だ。
 しかし、手元の現金が減っているのは間違いないと思うので、これから毎日気を付けていなければならない。
 日本の領海を侵した中国漁船の船長が逮捕された。サンゴを盗んでいたらしい。6時間余りの追跡の果てに逮捕したという。
 たまたま一橋大学の米倉誠一郎先生の『創造的破壊』を読んでいて、昨年の中国漁船体当たり事件に関する文章があった。とっても感動的な内容だった。
 事件直後に中国を訪れていて、現地の大学生に講義をされた先生は、「不幸な事件が起きたが、心配しないでもらいたい。日本は法治国家だから、きちんと対応する」と冒頭で述べたら学生たちは皆納得していたという。ところが、ホテルに戻った先生が、その後のニュースを知ってビックリ。何の意味もなく船長が釈放されたからだ。(私の立場はどうなる? 日本への不信感が高まるだけだ)驚嘆をこえて失望と落胆と・・・、そのときの先生の衝撃が目に浮かぶ。
 まさか、また同じ過ちをおかすことはないよね、と言いたい。
 北朝鮮の独裁者金正日の死亡ニュースも伝わってきた。ほぼ間違いなく後継者は金正恩だ。正恩には歴史に名を残すチャンスがある。それは、民主化を果たした場合だ。いきなり資本主義国家の真似はできないだろうから、中国を見習って改革を進めていくか(これが一番可能性が高いが)、韓国と統一するか(これが理想だろうが可能性は低い)、どちらかを推進して国民の幸福への道を切り開けば、ノーベル平和賞だって夢ではない。
 しかし、現在の先軍主義を継承し、領導者として君臨し続けようとするならば、遠からず暗殺の凶弾に倒れることだろう。権力主義の下では、少しでも油断すれば、下克上が起きるだけである。
 定時後、職場の忘年会が、施設の食堂を利用して開催された。
 私は初参加だったが、職員の家族も参加して、クリスマス会のようなほのぼのとしたものだった。
 地球全体を眺めれば、人類の歴史は、常にどこかで殺戮とした出来事が続いていた。
 しかし、虫眼鏡でよっく観察してみれば、極微の地域でささやかではあるが、真の幸福がそこでは実現していた。
 感慨深い一日だった。

12月21日(水)「会社で終日仕事に専念・・・の風さん」
 昨日帰宅途中で、ミッシェルのオドメーターが172000kmをこえた。オーナー同様に着々と老いを重ねる可愛いやつだ。
 会社の同僚と一緒にやっている分析作業が遅れていたので、今日は私がそれに専念した。元データは同僚がきちんと集めてくれたので、私が得意のエクセルを使ってグラフ化し、分析しやすくしたのである。
 半日でかなりできるかと思ったが、会社のPCがへぼいのと、ソフトのバージョンもボロなので、一日かけても終わらなかった。
 私ごときの仕事の進展がのろくても会社はビクともしないだろうが、若いバリバリの社員がこういった環境では、ライバルにどんどん水をあけられていくだけだ。
 一企業の浮沈だけならまだしも、日本全体がそういったスパイラルダウンに陥っていないか、非常に心配である。
 帰宅して、遅れている執筆作業に集中しようとしたが、気になることが次々に頭に浮かんでくる。
 今夜はネットから古本をチェックしてせっせと発注した。少しだけ打ち明けると、拙著である。

12月22日(木)「福島で状況が進展・・・の風さん」
 母がどうしても自分で年金をおろせない場合どうするか、いちおう作戦は立ててあった。来週の月曜日にわたしが福島へ行ってサポートするというものである。
 しかし、今日母が再び銀行へ行くかもしれないというヘルパーさん情報もあったので、それがうまく行ってほしいという気持ちも正直あった。年末のあわただしい中、福島を往復するのはなかなか大変だからだ。
 それで今日は、朝早く銀行へ電話して、顔見知りの窓口の女性に「母が来たらよろしく」と伝えた。そのとき、驚く話もあった。彼女によると、一昨日母が来たとき、確かにてぶらだったが、待たせてあったタクシーに乗せるとき、シートの上にいつものバッグがあったようだ、というのである。母はちゃんと通帳と印鑑の入ったバッグを持って出かけたが、銀行に入るときにタクシーの中に置き忘れ、それで銀行内で「盗まれた」とかなんとかいつもの変な発言を繰り返したらしい。
 昨日の分析結果を職場の上司に単独で説明した。上司も満足してくれた。あわただしい中、急いで分析してよかった。
 夕方、また伝言ゲームで、母が無事に銀行で年金をおろしたことが分かった。明日は天皇誕生日で祝日、続けて土日なので、銀行でおろしたくてもお金をおろせなくなる(カードは行方不明なので)ところだった。
 とりあえず来週早々福島へ行くことは中止した。

12月23日(金)「人間(ができていないこと)の証明・・・の風さん」
 福島行きがなくなったので、執筆に専念できる。それはとてもラッキーなのだが、根本的に実力不足の私の執筆速度は向上しない。それで、結局いつものように徹夜態勢となってしまう。
 昨夜からぶっ続けで執筆に取り組んだが、未明に体力も尽きた(笑)。
 年末でもあり、お世話になった大野先生へ挨拶にうかがうラストチャンスだったので、電車で向かった。途中、某駅で下車し、寒風が吹きすさぶ中、酒屋を探して、お歳暮代わりのビール券を購入した。今ではビール会社も販売しなくなったビール券である。しかし、大野先生の大好物なので、お歳暮はビール券以外に考えられない。
 支払いを終えて店を出るとき、コートの襟をかき合わせていたら「外は寒いですね。風邪をひかないように気を付けていってらっしゃい」と老店長が声をかけてくれた。
 そのとき、激しい閃きがあった。これって、日本の伝統じゃない? 風習というか、小売店では昔から当然のように見られた店と客のやりとりだ。
 大型店やコンビニといった新ビジネスが蹴散らすように小売店を追い払っていったが、同時に客と店の暖かな(マニュアル通りとは違う心のこもった)コミュニケーションも吹き飛ばして行ったのだ。
 昼食にけんちん蕎麦を小さな専門店で食べた。私には珍しいぜいたくだったが、酒屋の老主人の声かけが、私を暖簾の古そうな店へと導いたのだ。
 蕎麦が出てくる前に、蕎麦茶と蕎麦粉でできたお菓子が運ばれた。
 けんちん蕎麦は、最初にすすった汁の味が絶品で、久しぶりに素直に自分のぜいたくを受け入れることができた。
 大野先生のところへは、両口屋のお菓子も買った。
 先生からは、またたくさん激励され、勇気をもらって教授室を後にした。
 比較的近かったので、名大へ行き、ES総合館南側にある坂田昌一先生の記念碑を見学した。偉大な先生が生んだ偉大な先生方が発起人になって作られた記念碑である。
 記念碑には、次のような言葉が刻まれている。

 兼聴則明  あわせきけば すなわちあかるく
 偏信則暗  かたよりしんずれば すなわちくらし

 多くの人の意見を聞ける人は 聡明である(物の道理がよくわかっている)
 一方的な意見だけを信じる人は  無知のままである

 その言葉は、私の胸にも刻まれた。省察すれば、自身の銘とすべし。天の声に等しい。
 夕方、福島県のガソリンスタンドからケータイに電話が入った。
 母の家へ灯油を配達(屋外タンクに給油してもらうのだ)に行ったが、いくらチャイムを鳴らしても母が応答しないという。
 これは母が死んでいるわけではなく、炬燵で居眠りしているだけだと説明したら、10リットルだけ給油して明日また来てくれるというので、ヘルパーさんが来る16時ころにお願いした。
 定時後、研修所の職制忘年会が焼肉屋で開催された。
 焼肉を食べることに専念できず、ビールとワインを飲んでしまったので、ひどく酩酊した。
 金山駅で名鉄電車に乗り換えるつもりが、寝込んでしまい、名古屋も過ぎて、やっと目が覚めて(そのときは金山駅に着いたと信じていた)、改札口から出てみれば、そこは一宮駅だった! 急いで、名鉄の尾張一宮駅から特急で名古屋へ引き返したが、最寄りの駅に止まる最終電車は発車してしまった後だった(涙)。
 名古屋で泊まるか、タクシーで1万円以上出して帰るか、そういう選択になりかねなかったが、タクシーで2千円ちょっと出せば帰れる駅まで行く電車に乗ることができた。
 慈悲深いワイフが、その駅まで車で迎えに来てくれた。合掌・・・否、礼拝・・・否、感謝(笑)。

12月24日(土)「ひたすら執筆のクリスマスイブ・・・の風さん」
 ぶっ続けで執筆しているが、遅々として進まない。時間がかかる。
 調べながら書いているから、というだけでなく、事実から浮かび上がってくる何かを探しているからだ。それが原稿のテーマとなる。オリジナリティだ。
 小説ならそこから一気に想像力をはばたかせて、フィクションの世界を構築すればよいのだが、ノンフィクションはそれほど簡単ではない(否、どちらが難しいとかやさしいとかいう問題ではない。性質が違のである)。むしろ研究論文に近いか。
 途中でケーブルテレビ会社の工事がやってきた。同社が提供する電話サービスに加入するからである。インターネット回線も同社の提供で、これまで携帯電話関係とアンマッチだったが、両社が提携したことで、NTTからいったん縁を切ることになった。
 工事人が来たときは我が家の2匹の猫は少々パニックになったが、工事は1時間ちょっとで終了したので、後遺症は残らなかった。
 ここのところトレーニングに行けていない。あらゆることがピンチで、とても行ってられる状況ではなかった(今も)。しかし、そのせいで、体調は変になりつつある。ときどき鴨居を両手でつかんで背筋を伸ばしてみるが、いつまでもこうしてはいられない。
 夕方、ちょっと休憩してもいい状況になったので、ガソリンスタンドまでミッシェルの給油に行ってきた。
 晩御飯は次女と3人だけのクリスマスイブで、チーズフォンデュだった。女二人がカクテルを飲んで、私は水一杯も飲まず。
 今夜も眠れない夜になる。

12月25日(日)「益川先生と再会・・・の風さん」
 書斎にお昼寝マットと低圧枕を用意しての徹夜態勢だった。
 夜が明けても執筆が続いた。
 午後になって、またタイムリミットがやってきた。
 今日は、名古屋のサイエンスカフェの最終日で、益川先生もいらっしゃるガリレオパーティである。
 寒風吹き付ける中、電車で名古屋へ向かった。
 既に益川先生は到着されていた。
 運よく坂田先生の『コペンハーゲン日記』出版プロジェクトに参画できたこと、来年中に坂田先生や益川先生のお名前が出る原稿が本になりそうだ、とお伝えしたくて、そばに陣取っていたが、なかなか隙ができない。次々に女性ファンが隣に座って記念写真を撮るからだ。
 サイエンスカフェ「ガリレオガリレイ」は大きなガラス窓で外で仕切られている。外を眺めてみると、風で揺れる立ち木を斜めに切るように雪が舞っている。屋内の照明が映えて、幻想的な風景だ。しばし、寒さを忘れる。
 やっとチャンスが回ってきて、緊張しながらお話したら、先ず、記念出版に参画したことを感謝された。お辞儀されたので、こっちが恐縮してしまった。
 続いて「ノーベル賞を受賞されるような先生にも、さらに先生がいて驚きました」と言ったら、すごい発言があった。
 「私のしたことなど、ちっぽけなことです。それに比べたら坂田先生の偉大さはカリスマ的です。多くの弟子たちに優れた研究をさせたのですから」
 ノーベル賞受賞は、坂田先生の偉大さに比べたらこれだけだと言って、右手の親指と人差し指でつまむようにして見せた。これには衝撃を受けた。同時に、益川先生の偉大さをあらためて感じた。
 他にもスピーチで、面白い話をされた。
 「今日はクリスマスかもしれないけど、私は宗教を信じません。なぜなら、キリスト教やマホメット、ユダヤ教などは聖書を信じている。しかし、聖書に書いてあるアダムとイブの話をそのまま信じたら、現在地球にいる70億人の人口は説明ができない。地球の歴史、人類の歴史はもっと長い。嘘を教える宗教は怪しい。科学のよいところは、何でも不思議に思うことだ。そこから始まる。そして、サイエンスカフェのような交流の場で科学は大きく発展する。私はそれを拡散の法則と呼んでいますが(笑)。とにかく、今日でここのサイエンスカフェは中断するようですが、遠からず再開されることを望んでいるし、そのためなら何でも協力します」
 ワインを2杯飲んだが、今日は乗り越すことなく、自宅の最寄りの駅でちゃんと降りた。
 再び執筆に復帰した。
 今日、母がまた警察のお世話になったという情報が飛び込んできた。

12月26日(月)「バタバタと福島へ向けて出発・・・の風さん」
 昨夜の冷え込みで、あちこちで雪が積もったが、拙宅の周囲はたいしたことなかった。
 徹夜で書き続けた原稿を出版社へ送り、旧職場に出社して昼食を摂ってから、研修所へ移動した。
 午前中に母の認知症を診てもらっている病院へ電話して、年内の最終外来が29日(木)であることを確認していた。その日は主治医の担当日でもあり、もしかすると入院が可能かもしれない。主治医は午後3時以降でないと本院からやってこないとのことだったので、あとでまた電話することにした。
 職場の上司に現状説明した。先週から二転三転していたが、ありがたいことに同情してくれる。私にすればひたすら会社に迷惑をかけているだけなので、ひどく恐縮してしまう。
 夕方やっと先生と電話で話すことができ、入院は可能だという。
 もしうまく連れて行くことができたらお世話になります、と伝えて了解された。
 それからバタバタと特別介護休暇の申請やら処置をして、雪が降ってくる前に、少し早めに研修所を出発した。しかし、もう雪が降り始めていた。昨夜同様に冷え込んでいるのだ。
 有料道路を安全速度で走って、無事に帰宅した。
 今夜は旧職場の属しているセンターの忘年会だったが、リスクを回避するため、先週のうちにキャンセルしてあったが、正解だった。
 何度も予約とキャンセルを繰り返していた福島往復手段だが、今夜の夜行バスのチケットは入手できていた。
 それで、急いで旅行の準備をし、夕食を摂り、シャワーも浴びて、バタバタと家を出発した。
 駅まで行ってから忘れ物に気付いたため、いったん帰宅し、電車を1本遅らせたため、名古屋でも駆け足となったが、ちゃんとコンビニで寝酒のビールも購入した。今年最後のぜいたくだと思って、偽物ビールでなく、プレミアムモルツにした(笑)。
 夜行バスは運よく臨席が空席で、連日の睡眠不足が続いていた私は、コロッと眠りに落ちた。

12月27日(火)「福島に到着・・・の風さん」
 前回から使用している携帯枕のおかげで熟睡できた。
 新宿駅のみどりの窓口で、レール&レンタの切符を購入した。復路は制限期間で割引はきかないという。持って来なかったが学割を示してもダメとのこと。
 ロッテリアが早朝からオープンしていたので、朝食を先に摂り、ついでに読書もしてから洗面をしにトイレに行った。
 今年何度目かの浮浪者のような朝の行動である(笑)。
 昨日送った原稿がほぼ最終仮原稿だったので、神楽坂にあるS社に寄って打ち合わせてから福島へ向かう計画である。
 充実した打ち合わせを正午に終えて、S社を後にした。
 東京駅へ直行し、昼食用にコンビニでおにぎりを3個買い、待合室で胃袋の中にお茶で流し込んだ。これから先のミッションを思うと、何を食べても味気ないに決まっている。
 東北新幹線は比較的混んでいた。
 私はいつのまにか爆睡してしまった。
 それでも寝過ごすことなく、目的の駅で降りることができた。
 駅からバスで母の家へ向かった。
 玄関で帰ろうとするヘルパーさんとすれ違いになった。
 母も野良猫も相変わらずだった。あまりにも茶の間が猫の糞などで汚れていたので、掃除機をかけた。コロコロを使って座布団の表面だけきれいにした。そうしないと座れる場所がなかったからだ。
 近くのスーパーへ買い物に行った。
 今夜のご飯は、卵とホタテのおじや、マツタケのお吸い物(インスタント)、ロースハムとサラダそして漬物である。食後、私だけインスタントコーヒー(賞味期限切れ)を飲んだ。
 夜は自室で、なかなか送れない相手にメールを送り、その後、風呂に入って、早めに就寝した。健康的な生活のように見えるが、私の精神状態はけっして穏やかではない。
 
12月28日(水)「運命の日の前日・・・の風さん」
 予約してあるレンタカーを借りるため、バスで駅へ向かった。片道610円かかる。どれだけ離れているか、料金で想像できるだろう。
 予約時刻まで少し余裕があったので、Tully'sに入った。この駅には、スターバックスもドトールもあるが、場所に関係なくTully'sは初めてだった。
 精神が不安定な今の自分に、何となく美味しいコーヒーが必要な気がした。
 落ち着いた内装と流れるジャズのサウンドが、私をやさしく包んでくれたのは間違いない。レギュラーコーヒーの味もまずまずだった。自らへのぜいたくが許せない性格だが、全身がこういった雰囲気を求めているのが分かった。
 レンタカーを借りて、いったん兄貴の家の近くで兄貴と合流して打ち合わせてから、母の家に戻った。
 今朝私が洗濯したものを、母が石油温風ヒーターの前で乾そうとしているとき、母はよろけて尻餅をついた。
 自分でも驚いたようで、茫然とした表情のまま、しばらく起き上がれないでいた。
 洗濯物は私が乾し、母をソファに座らせ、この出来事で母を追及はしなかった。
 衰弱している母を強烈に実感した私は、この事実だけでも一人暮らしが困難になってきていることを認識した。
 福島にいると、テレビで震災関連の番組は非常に多いことに気付く。3.11から、東北三県はまだその真っ只中にある。「多くの人たちの善意が、本当にうれしかった」という被災者の言葉に続いて出てくるのは、「その人たちから忘れられてしまうのが怖い」という叫びだ。まだまだ震災ショックから立ち直れないでいるのだ。
 今日テレビで観たのは、福島県郡山市にある尚志高校サッカー部の活躍だった。
 震災によって、というより原発事故の影響を心配する親の気持ちを察した仲村監督は、選手を一人ひとり親元へ送り届けた。それが、いよいよサッカーシーズン到来となって、すべての選手がピッチへ帰ってきたという。皆、サッカーをやりたかったのだ。
 練習不十分の中、なかなか良い成績は残せなかった。それでも、今年は震災のあった特別な年ということを念頭に、くじけない心、福島の人たちを勇気づけるプレーを常に心がけて戦ってきた。
 そして、第90回全国高等学校サッカー選手権大会・福島県大会では、決勝で昨年と同じ相手富岡高校と対戦した。どちらも被災している点では同じ条件、思いも一緒である。
 結果は、昨年に続いて尚志高校が勝った。尚志は富岡だけでなく、福島県民の期待を背負って、全国大会に出場することになった。
 三瓶キャプテンの爽やかでありながらしっかりと語る決意に、私も感動した。
 今日の昼食は、母は鍋焼きうどん、私は肉まん3個だった。
 午後、自室で気まぐれ日記をまとめて書いているときに、OmO教授からケータイに電話が入った。
 名古屋近郊を散策中だったそうで、私が福島にいることを話すと驚いていた。
 今夜も、昨夜と似た料理を用意した。
 卵と鶏肉のおじや、マツタケのお吸い物(インスタント)、ロースハムとポテトサラダそして漬物である。
 深夜、ビジネススクールのHPを確認していて、驚くことがあった。
 年明けに受ける授業の講師が、私と浅からぬ縁があったのである! 
 一度、受講をやめることにして、その後再び受講を決めた経緯があり、これしかなかったわけではないのだ。
 人は何者かの力で生かされている。それを改めて実感した出来事だった。
 就寝前に亡父の部屋へ入り、仏壇に手を合わせた。
 (お母ちゃんをお守りください)
 明日の行動で、私は無理はしないつもりだ。もし流れが母の入院へつながるものだったら、それに従おうと思う。そのことを祈るとしたら、亡父以外にはあり得ない。母を最も愛していた人だからだ。

12月29日(木)「運命にしたがって・・・の風さん」
 起床したら、既に母が起きていた。寝ている母を起こしてまで計画を決行する気はなかったから、スタートから準備が整っていたとも言える。
 私はトーストとコーヒー牛乳で朝食をすませた。
 母はいつも通りに、野良猫を家へ入れて餌をやったりしている。
 私がインスタントコーヒーを飲んでいる頃、母はゆっくりと洗面を始めた。
 私は中の猫を外へ巧みに追い出した。
 すっかり身支度を整えた母は、ソファにゆったりと体をあずけた。
 電波時計が既に11時を回ってだいぶたつ。
 珍しく母が落ち着いた表情を見せている。このままソファで寝込んでしまいそうだった。
 そこで私が、買い物やランチを含めた外出を誘うと、あっさりと母は承知した。
 (亡父の導きだと信じよう)
 それから先のことを、詳しくここに書くのは控えたい。かなりプライベートなことになるからだ。
 ただ、今年の3月以来、多くの知人や友人に聞いていたことが、まさに自分のことになったのは事実だ。
 認知症の親を、病院だろうが施設だろうが、すんなりと入れることはできないのだ。
 「これが、親に対してすることか!」
 すさまじい形相で怒鳴られ、持っているバッグでなぐられたことだけは、打ち明けておく。
 そして、その母を、私は抱きしめたことも。
 着の身着のまま入院させた母のためにやることはたくさんあったが、そのことで兄夫婦と衝突したことも。
 午後10時過ぎ、母の家で、私は一人ぽっちになっていた。
 明日の朝はゴミ出しである。そして、私は帰らなければならない。
 就寝は午前2時だったが、最後に、亡父の位牌の前で無心に手を合わせることは忘れなかった。

12月30日(金)「こっちが精神不安定に・・・の風さん」
 午前6時前に起きた。冷え込む朝だった。窓から外を見ると、暗闇の中で地面が真っ白に光っている。雪だった。
 亡父の位牌にお菓子を添えて、今日の母を守ってほしいと手を合わせた。
 ゴミ出しの準備をし、洗濯をしかけ、外の猫に刺身3パックをやり、自分の朝食の用意をした。
 兄に預かってもらう荷物を手渡し、ゴミ袋3つを捨てに行った。
 朝食は、トースト、目玉焼き3個、ウィンナーソーセージ、ホットミルクである。IHですばやく調理した。
 食後、食器類を洗い、凍って破裂しないように、水道の元栓を閉めた。
 洗濯の終わった衣類などを室内に乾した。
 午前9時。出発の予定時刻である。
 隣家のご主人と会ったので、母の入院の話をしたら、最近母に呼ばれて変な話を聞いたと教えてくれた。幻聴による作り話である。「一人暮らしはよくないですね」隣家のご主人も、問題の本質を見抜いていた。
 満タン給油してから、レンタカーを返却した。
 正月に子供たちが集まるので、名物のお菓子をお土産に買った。
 新幹線の出発時刻までまだ時間があったので、またTully'sに寄った。
 コーヒーを飲みながら、ワイフにケータイメールで状況報告した。
 返信で、ぼくがベストを尽くしたことをワイフはねぎらってくれたが、「力不足のベストなんか……」と打ち込んだところで、こらえきれなくなった涙が一気に頬を伝った。
 いくら認知症とはいえ、嫌がる母をだまして入院させてしまったのだ。
 東北新幹線では、長女が買ってくれた携帯枕をして爆睡してしまった。
 東京駅で水割りとサラミを買ってこだまのグリーンに乗車した。
 それらを飲んだり食ったりしながら、モバイルPCのアプリルで映画『ボディガード』を鑑賞した。もうこれが4、5回目だろう。音声はイヤホンである。
 約2時間、母のことを忘れて、ケビン・コスナ―とホイットニー・ヒューストンに見惚れていた。
 夕方、自宅にたどり着いたが、私は心身共にへとへとだった。
 夕食後、兄の家へ電話し、今日の母の様子を聞いたが、不満だった私は兄夫婦に自分の考えを主張したが、意見はすれ違いだった。
 気持ちの高ぶりを抑えられない私を、ワイフがさかんになだめてくれたが、自分でもどうしようもなかった。
 しかし、今夜はまだやることがある。
 私はようやく年賀状作成に取り掛かることにして書斎へ入った。
 徹夜を覚悟していた。
 
12月31日(土)「年の終りに・・・の風さん」
 今年、筆名と本名を併記した名刺を作成したように、近いうちに両者は本当に合体させるつもりだ。
 その途中プロセスとして、今回の年賀状の裏面は、共通にした。作家の私だけを知る人は、初めて私の家族を知ることになり、本名の私しか知らない人は、初めて私の著書出版を知ることになるのだ。
 ただし、差出人は表面にそれぞれで印刷した。来年は、両方の名前を併記するつもりだ。
 そのように合理化した年賀状作成だったが、印刷を一気に仕掛けることができないので、待っている間に、何度も眠りに落ちた。
 そうして、すべての印刷が終わったのは未明だった。
 寝惚けながらの作業だったが、1枚の失敗もなかった。
 誰よりも早く階下で行動を開始し、朝食も終えてから、ミッシェルで郵便局まで年賀状を出しに行った。
 昼食後、さすがにダウンした。
 夕方、兄から電話があり、今日の母の様子を教えてもらったが、食事こそ多少は摂っているものの、薬をまともに服用しないし、衣類の交換にも応じていないようだった。
 早々と年越し蕎麦を食べた後、気持ちの落ち着かない私は、書斎へこもる気にもなれず、リビングでうろうろしていた。
 本当なら、作家として大学院生として、さまざまの残務があって、それらを少しでも片付けねばならなかったのだが。
 いつのまにか紅白歌合戦が始まっていた。
 途中から観たのだが、最近の歌手は全く知らない。
 母が入院している病院は、今頃どうしているのだろう。老人介護施設なら、特別な夜だから、入所者が全員でテレビの前に集まって、みかんでも食べているかもしれないが、病院ではそんなことは期待できないだろう。
 東日本大震災の話題が多かったので、ついつい画面に引き寄せられた。
 やがて紅白歌合戦も終わり、ゆく年くる年になった。
 帰省中の長男が二階から降りてきて、長女を除く家族4人での年明けとなった。
 母のことは、明日、長女が帰省してきて、家族5人がそろったところで説明するつもりだ。
 今年は、母の心筋梗塞、母の重い認知症判明、東日本大震災から福島の原発事故、名古屋芸大を卒業した長男が、京都の精華大学へあらためて入学、4月から私は「愛知工業大学大学院非常勤講師」「関孝和数学研究所客員研究員」「日大工学部客員研究員」を拝命、9月には名古屋商科大学大学院へ入学、と色々あった年だった。
 恒例の今年の成果を記録しておく。

2011年の成果

【受賞】
 日本機械学会生産システム部門優秀講演論文表彰(2011年3月)
 日本経営工学会論文賞(2011年5月)

【小説】
 『星空に魅せられた男 間重富』(くもん出版)出版。

【エッセイ・読み物など】
「学者が書いた子供の本」(日本推理作家協会会報2011年5月号)
 雑誌「技術教室」で連載していた「間重富」(農山漁村文化協会)が2011年8月号で完結。

【講演・トークなど】
平成22年度尾張部公共図書館連絡協議会第5回定例会 記念講演
    「図書館と歴史作家のホットな関係」(2011年1月25日)
JMA生産技術特別講演会で講演
    「歴史から学ぶものづくり論」(2011年4月15日)
日本経営工学会中部支部総会で特別講演 
    「江戸時代、質屋の主人が作った天文からくり時計」(2011年5月13日)
名古屋商科大学キャリア形成総合講座で講義
    「夢と出会いが生んだマルチな生き方」(2011年6月23日)
第65回九州算数・数学教育研究(長崎)大会で講演(2011年7月28日)
    「江戸時代の和算と天文学〜和算家・天文学者の活躍を通じて〜」
愛知淑徳大学ビジネス学部講演会で講演
    「創るたのしみ 識るよろこび」(2011年11月29日)
第54回日本大学工学部学術研究報告会で特別講演
    「時計技術 〜大坂の質屋の主人が作った天文からくり時計〜」(2011年12月3日)

   注)他に作家として勤務先での講演が1回。また会社員としての講演が2回。

【その他の特記事項】
 『科学者の本棚』(岩波書店 2011年9月発行)に「私の一冊」が収録。
 前期、愛知工業大学大学院で非常勤講師を務めた。
 地元での文章サークル「風」を継続中。
 
   注)書評やインタビューに基づかない鳴海風に関する記事は省略。


2012年1月はここ

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